バンクーバーオリンピック フィギュアスケート男子

高橋大輔選手が銅メダルを獲得。


おめでとうございます。



そして、織田信成選手が7位、小塚崇彦選手が8位にそれぞれ入賞しました。

フィギュア 高橋「銅」 日本男子初(中日新聞)

バンクーバー五輪第7日の18日(日本時間19日)、フィギュアスケート男子は後半のフリーを行い、高橋大輔(関大大学院)がショートプログラム(SP)との合計247・23点でこの種目で日本勢初のメダルとなる銅メダルを獲得した。金メダルは昨季世界選手権王者のエバン・ライサチェク(米国)。

 高橋は4回転ジャンプに失敗。フリーでは全体の5位だった。SP4位だった織田信成(関大)は、演技中に靴ひもが切れる不運もあり、238・54点で7位入賞に終わった。小塚崇彦トヨタ自動車)は初めて4回転ジャンプを決め、自己ベストの231・19点で8位入賞と健闘した。

 

◆誇りにしたい 
高橋大輔の話> 金メダルはもちろん狙って、4回転ジャンプを入れてパーフェクトに滑る目標だったから挑戦した。4回転で失敗したし、ほかのところでミスも出たけど、この舞台で滑り切れたからガッツポーズが出た。けがで1年を棒に振ったのに、ここまで戻ってこられた。日本人初のメダル獲得に関しては本当に自信になるし、誇りにしたい。

◆高橋、軽快ステップで魅了
 フリーのテーマは、イタリア映画「道」。一昨年の右ひざの大けががなければ、昨季使っていたプログラム。哀愁を感じさせる大道芸人の人生を演じ切った。立ち止まり、遠回りもしてつかんだ銅メダル。演技を終えてメダル獲得が決まると「安心感とうれしさだけ。自然に涙が出てきた」。高橋が歩んできた道の終着点だった。

 男ばかり4人兄弟の末っ子に生まれた。兄たちがやっていた少林寺拳法や野球にはなじめず、フィギュアスケートを始めたのは8歳の時。地元の岡山県倉敷市のクラブに通ったが「遊びみたいなもの」。氷の上で踊ることが楽しかった。

 才能が開花するのは中学以降。中学2年で初めて国際大会に出場し、高校1年で出た2002年世界ジュニア選手権では日本男子初の優勝を飾った。階段を駆け上っていくかに見えたが、大舞台での弱さが目立ち始める。04年の全日本選手権フリーでは3度転倒するなど6つのジャンプで失敗。06年トリノ五輪ショートプログラム(SP)5位からフリーで崩れて8位に順位を下げた。

 ひ弱な男の子という印象だった高橋を変えたのは、トリノ後の4年間。トリノ荒川静香さんを金メダルに導いたニコライ・モロゾフコーチに師事。足りなかった心の強さを植え付けてくれた。

 07年世界選手権で銀メダル。バンクーバーへの明るい展望が開けたが、「今でも尊敬している」というモロゾフコーチとの決別の時がきた。金メダルを目指した08年世界選手権で4位。そのころから関係がうまくいかなくなり、その春には織田もモロゾフコーチの指導を受けることになった。選手なら自分だけを見てもらいたいと思うもの。「しんどい決断だった」。自ら別れを伝え、自立の道を歩んだ。

 一昨年秋に右ひざを手術。その後の1年半は「いろいろなモノにぶつかった。迷ったり、落ち込んだり、安心したり」。乗り越えて思う。「すべてがプラスになった」と。

 「五輪はこれが最後。集大成の演技をしたい」と臨んだ2度目の五輪。挑んだ4回転は失敗。だが、「世界一」といわれるリズムに乗った軽快なステップは観衆を魅了した。

 「自分自身成長できて、ある程度強くなったと思う」。メダルをつかんだ「道」の演技には、16年間のスケート人生が凝縮されていた。


織田選手7位 涙乗り越え演じきる(中日新聞)

なんで、こんなことが本番、しかも五輪で起きるのか−。フリーの演技中に、靴ひもが切れる思わぬアクシデント。負けて泣き、勝って泣く。「自分の敵は心の弱さ」。繊細すぎる性格と評される織田信成選手にとって、このトラブルはどれほど演技に影響を与えたのだろう。

 そんな織田選手が初めて氷の上に立ったのはフィギュアコーチの母・憲子さん(62)に連れられて訪れた3歳のころのこと。五輪を意識したのは高校生になってからだが、本当の出発点はトリノ五輪直前。「あの時行けなくて、バンクーバーには絶対行くという気持ちになった」

 トリノ五輪代表を争った2005年全日本選手権。一枚の切符を高橋大輔選手と最後まで激しく競り合った。一度は自分の優勝と発表されながら、採点ミスが発覚。すでに表彰も受けていた。消えた五輪切符。一晩泣き続け、翌日にやり直した表彰式でも涙は止まらなかった。

 トリノ五輪はテレビで見た。大舞台で演技をする高橋選手に、自分の姿を重ね、次の五輪を目指す気持ちを強くした。翌シーズンの06年世界選手権では4位に入ったが、心の弱さが競技以外で出たのが07年夏。酒気帯び運転で出場停止処分を受けて、1シーズンを棒に振った。「あの時が一番きつかった」。厳しい批判を浴び、その後は孤独な練習に耐えてきた。

 そして「出場するのが夢だった」五輪。ショートプログラム(SP)で4位につけて迎えたフリーで、憲子さんと握手して、リンクの中央に立った。順調な滑り出しだったが、後半でジャンプの着氷を失敗。氷に手をついた際、右の靴ひもが切れた。数分の中断後、気持ちを立て直して演技を再開したが、表情は沈んだままだった。

 次のソチ五輪のことはまだ考えていない。休学中の大学もこの春から復学する。

◆“殿”に大拍手 清須市民声援 
 愛知県清須市清洲ふるさとのやかたでは、市民ら150人が集まり、清洲城名誉城主の織田信成選手の演技をかたずをのんで見守った。

 靴ひもが切れるアクシデントがあり、同市清洲、アパート経営河村洋和さん(60)は「かわいそう。でも一生懸命に滑り、好感が持てた」と話していた。

 演技が終わると、健闘をねぎらう大きな拍手が起こった。

 競技前に市民らは、やかたに隣接する清洲公園にある織田信長公の銅像前で、子孫の織田選手の必勝を祈願。甲冑(かっちゅう)武者や市のマスコットキャラクター「きよ丸」と「うるるん」も登場し、会場を盛り上げた。


小塚選手8位 恩返し、父を超えた(中日新聞)

その背中を追ってきた父を超える舞台だった−。男子フィギュアスケート代表の小塚崇彦選手が、18日夜(日本時間19日午後)のフリーに登場。五輪を目指すきっかけを与えてくれた父の目の前で、成長した滑りを見せた。

 フィギュアを始めたころから父の嗣彦さん(63)がコーチだった。父と子、コーチと選手。異なる2つの立場で戸惑うこともあった。「親だと思うと反発してしまう。父もつい余計な言葉が出る」と小塚選手。五輪のハンマー投げ金メダリストの室伏広治さんにアドバイスをもらったこともある。室伏さんも父がコーチだ。

 室伏さんには「父の言葉を素直に受け入れられるようになれば、もう一段上にいける」と言われた。「なるほどと思った」と小塚選手。肉親の間で、生徒と教師の関係をいかに築くか、ヒントをもらった。

 グルノーブル五輪での父の成績は21位。嗣彦さんは「私は五輪に参加したことが意義ある程度。数倍も努力して代表になった崇彦の方が断然上」と、息子の実力を認める。

 SPを終え8位につけていた小塚選手。「父を含め、支えてくれた人への感謝の気持ちを込めて滑る」。その言葉通り、五輪本番の氷上で初めて4回転ジャンプを決め、父であり、コーチである人を乗り越える演技をみせた。


高橋選手は最初の4回転ジャンプは失敗するも、あとはしっかりまとめ、素晴らしい演技もあっての銅メダルでした。

織田選手は靴ひもが切れるというアクシデントに見舞われるという不運を乗り越え、結果は残せませんでしたが、最後までやり切ったことを高く評価したいです。

小塚選手は失敗がありましたが、いきいきとした演技で私たちを魅了してくれたと思います。


でも、それ以上にすごかったのが、金メダルを獲得したアメリカのライナチェック選手でした。

大技は見せませんでしたが、流れるような演技、手の先から足のつま先まで魂のこもった演技には感動しました。