阪神・淡路大震災から20年

阪神・淡路大震災20年 各地で黙とう(NHKニュース・動画あり)

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で20年になり、被災した地域では地震が起きた午前5時46分に合わせて犠牲者に黙とうをささげました。

このうち神戸市中央区の「東遊園地」では、17日の日付を表す「1.17」の形に並べられた竹の灯籠に火がともされました。
震災から20年のことしは例年より多くの遺族や市民が会場を訪れ、地震が起きた午前5時46分に全員で黙とうをささげて犠牲になった人たちを追悼しました。
このあと敷地内にある慰霊碑の前で、神戸市主催の追悼の集いが開かれ、震災で自宅が倒壊し33歳だった母親を亡くした神戸市東灘区の銘田奈津紀さん(26)が遺族を代表して、「震災や母のことを話題にすると家族やその場にいる人が悲しみ、苦しむため、話すことを避けてきましたが、母のことを忘れてはいません。私が今、生きているのは母のおかげです。大好きだった母と髪の毛を乾かしあい、癖毛だった母の髪を何度も、といた思い出から私は美容師になりました。私はこれからも母の分も強く生きていきます」と追悼のことばを述べました。
続いて、震災の頃に生まれた新成人を代表して神戸市灘区の小川和昭さん(20)が「私たちに震災当時の記憶はありませんが神戸の復興と共に成長してきたことは事実です。人と人とのつながりや絆の大切さを次の世代に伝えていきます」と述べました。
17日は各地で追悼の行事が行われ、犠牲者を悼むとともに改めてこの20年の歩みを見つめ、震災の教訓を語り継ぐ1日になります。
神戸市によりますと、追悼の集いが開かれている神戸市中央区の「東遊園地」には午前7時までにこれまでで最も多いおよそ1万4000人が訪れたということです。
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「この日が来るのは悲しい」
震災で、当時45歳だった義理の弟を亡くした神戸市東灘区の72歳の男性は「20年という期間はあっという間でした。真面目でいい弟だったので、毎年、この日が来るのは本当に悲しいです」と涙を流しながら話していました。


「弟にありがとうと伝えに来た」
震災で当時、大学4年生だった弟を亡くした歌手の女性は、「震災で亡くなった弟の存在があったから、ここまで生きてこられました。きょうは弟にありがとうと伝えに来ました」と涙を流しながら話していました。


「20年間、母を忘れたことはない」
神戸市灘区で被災し母親を亡くしたという56歳と54歳の姉妹は、「20年間、母を忘れたことはありません。これまでつらくてあまり話すことはありませんでしたが、母のためにも震災のことを次の世代に語り伝えていきたいです」と話していました。


「人の支えで生きてこれた」
61歳だった夫を亡くした神戸市灘区の78歳の女性は「いろいろな人の支えがあって、震災後のつらい時期を乗り越え、きょうまで生きてこれました。きょうは、夫にその報告をしに来ました。私にとっては、長いようで短いような20年でした」と話していました。


「息子亡くした気持ち変わらず」
神戸市東灘区に住んでいた20歳の大学生の息子を亡くした香川県小豆島町の67歳の女性は、「毎年ここに来ていますが、20年がたっても息子を亡くした当時の気持ちは変わりません。私は神戸から離れた所に住んでいるので、こういう気持ちを分かち合う機会がなかなかありませんが、ここに来ると多くの人が何らかの思いを抱えていて、私は1人じゃないと実感できます」と話していました。


「新しい家族増えたと報告」
兵庫県芦屋市の自宅で当時4歳の弟を亡くした32歳の男性は、「去年3月に結婚したので、『新しい家族が増えたよ』と弟に報告しました。今でも弟が家族の中心にいて、一緒に暮らしているような気持ちでいます」と話していました。
また男性の妻は、「夫の弟がどんな大人に育っていたのか、一度でいいから会ってみたかったです」と話していました。


「命あるかぎり娘の供養を」
神戸市長田区で当時30歳の長女を亡くした75歳の男性は、長女の遺影を抱えて集いの会場を訪れ、「毎年1月17日は、娘に会える日だと思っています。きょうも長田区で供養をしてから、亡くなられたほかの方にも祈りをささげようと思いここに来ました。20年がたっても、娘を亡くした気持ちは変わることはなく、命あるかぎり娘の供養をしていきたい」と話していました。


「思い出すと居たたまれない」
神戸市須磨区に住んでいためいを亡くし、みずからも被災した82歳の女性は、「毎年、この日が来ると、当時の出来事をきのうのことのように思い出します。めいは娘と年が近かったので、思い出すと居たたまれない気持ちになります」と話していました。


「父と友人失いとてもつらい」

震災で兵庫県淡路市に住んでいた父親を亡くし、自身も神戸市東灘区で被災した際のけがの後遺症で車いす生活を送っているという神戸市須磨区の67歳の男性は、「震災で仕事をなくし、父親とたくさんの友人を失ったことが、今でもとてもつらい思い出です。震災がなければあと10年は元気に働けていたのにと思うと悔しいです。震災後は引っ越したことで知り合いもいなくなり、とても寂しい日々を送っていました。ことしは震災前に住んでいた場所の近くに引っ越すことにしていて、再び慣れ親しんだ場所で暮らせることが僅かな希望になっています」と話していました。


震災から20年の課題
20年前の17日、神戸市を中心に震度7の激しい揺れが襲い、6434人が死亡、およそ25万棟の住宅が全半壊しました。
その後、およそ16兆円を投じて復興事業が進められ、この20年で被災した地域の人口や経済指標はおおむね震災前の水準まで回復しました。
また、震災はその後の日本の防災や災害対応の在り方にも大きな影響を与え、全国で建物の耐震化が進められているほか、被災者を支える災害ボランティアの重要性も広く認識されるようになりました。
しかし、残された課題もあります。
住まいを失った人たちが暮らす復興住宅では急速に高齢化が進んで2人に1人が65歳以上となり、誰にもみとられずに亡くなる「孤独死」は去年1年間で40件に上っています。
また、震災を知らない世代も増え続け、神戸市では震災後に生まれたり市内に転入してきた人が全体の44%に上り、地域で助け合って生き抜いた経験や日頃の備えの大切さといった教訓をいかに次の世代に伝えていくかが課題になっています。

社会インフラは復興したものの、人的なことに関しては復興途上にあると感じます。

そして、震災での経験や教訓をいかにして次世代に伝えていくかも重要なことではないかと思います。